ジェイムズ・ジョイス エヴリン

 
 
エヴリン

 ジェイムズ・ジョイス
 『ダブリン市民』 (1914) より

 
 
 窓辺にすわって通りが夕闇に沈むのを見ている。カーテンに頭を押しあてるとほこりっぽい木綿のにおいが鼻につく。疲れている。
 人通りは少ない。突きあたりに住むひとが帰るところ、舗道のコンクリートをコツコツと、小道に敷きつめた石炭殼をザクザクと足音をたて、赤レンガの新しい家についた。昔あそこには原っぱがあって夕方にはきまってよその子達と遊んだ。ベルファストから来たひとが原っぱを買い、家を建てた――この辺の小さな茶色の家とはちがってどれも明るい色のレンガ造り、屋根は日に輝いている。通りの子達と一緒になって遊んだのはあそこだった――ディバインやウォーター、ダンの家の子達、ちびでびっこのキーオも、うちの兄妹姉妹も。アーネスト兄さんはもう大きかったから一度も遊ばなかったけれど。リンボクのステッキを振りあげたお父さんに原っぱから追いだされることもあったけど、普段はちびのキーオが見張っていて、来たら大声で知らせた。あれでも幸せなほうだったんだと思う。お父さんはそんなに飲まなかったし、お母さんも元気だった。それもずっと昔。兄弟姉妹みんな大人になって、お母さんは亡くなった。ティジー・ダンも亡くなってウォーター一家はイングランドに戻った。みんな変わっていく。みんなと同じように遠くへ行く。家を出るんだ。
 家! 部屋にある見なれた家具をひと通り見なおしてみる。何年も週に一度ずつ払ってきたほこり、あれはいったいどこからわいて出たんだろう。離れて暮らすことになるなんて夢にも思わなかったけど、もう見ることもないんだろう。長く住んではいても壁にかかった黄ばんだ写真、あれに写った司祭さんの名前も知らない。壊れた足踏みオルガンの上、聖マーガレット・マリア・アラコクとキリストの約束を描いた彩色版画と並べてかけてある。お父さんの学生時代の友達で、お客さんに写真をみせるたび気のなさそうに付けくわえる。
 ――今はメルボルンにいるんだがね。
 一緒に行くと決めた、家を出よう。でも、それでいいの? 何度も自分に問いかけてみる。家にいれば住む場所と食事はなんとかなる。まわりには昔からの知り合いもいる。もちろん家でも勤め先でも忙しく働かないといけないけれど。駆け落ちしたって知れたらお店の人達どんなふうに言うのかな? 馬鹿な子、なんて言って求人広告でかわりを探すんだろう。ギャバンさんは喜ぶだろうな。いつもきつく当たってくる、近くに人がいる時は特に。
 ――ヒルさん、お客さん待ってるの見えないの?
 ――ヒルさん早く、何してるの?
 お店をやめたって泣いたりなんかしないと思う。
 新しい家、遠い異国ならこれまでとはちがう。結婚する――エヴリン、そう、あなたが。みんな大事にしてくれる。お母さんのような目には遭わない。十九になった今でもお父さんに殴られるんじゃないかと思う時がある。胸がどきどきするのはそのせい。子供の頃は殴られなかった、女の子だったから。ハリー兄さんやアーネスト兄さんは殴られていた。最近になっておどされたり、お前が死んだ母親のかわりになるんだ、なんて言うようになった。それに今は守ってくれる人がそばにいない。アーネスト兄さんは亡くなって、ハリー兄さんは教会の装飾の仕事をしているから、大体いつも田舎のどこかにいる。それだけじゃなくて、土曜の夜になると決まってお金のことで言い合いになって言葉にできないくらい疲れがたまる。毎週七シリング、少ないけど稼いだお金はみんな渡してハリー兄さんも出来るかぎり仕送りしてくれているのにすこしお金を出してもらうだけで大ごとになる。無駄づかいしすぎだ、能無しが、苦労して稼いだ金をドブに捨てるみたいな真似ができるか。土曜の夜は泥酔してるからなおさら。日曜の晩飯の分はちゃんと買うんだろうな。捨てぜりふと一緒にやっとお金をもらったら全速力で市場に買いに出ないといけない。黒の革財布をぎゅっと握って人ごみを押しのける、山ほど食料品をかかえて帰るともう深夜。家事だって楽じゃないし子供ふたりにきまった時間にご飯つくって学校におくる仕事もある。仕事も暮らしも楽じゃない。でもそれも終わりだと思って振りかえると耐えられないほどでもなかったな。
 これからフランクと新しい暮らしがはじまる。フランクは優しくて、男らしくて、隠し事もしない。夜行汽船で国を出たら結婚してブエノスエイレスに住む。ふたりで暮らす家はもうあるんだ。はじめて会った時のことははっきりおぼえている。よく通る街道沿いの家に部屋をかりている。二三週間まえのことみたい。フランクは門のところに立っていて、ハンチング帽を後ろにやって癖のある髪が日焼けした顔にかかっていた。仲良くなったのはそれから。毎晩お店の近くで待ちあわせて家まで送ってくれる。『ボヘミアの少女』を観に連れていってくれて、劇場の慣れない上席に並んで座っていると自分が高められたような気がした。音楽が大好きで歌うこともある。付き合っていることはみんな知っていて、船乗りに恋をする女の子の歌を聴かされるといつも嬉しくて何て言ったらいいか分からなくなる。よく冗談半分に人形さんって呼ばれる。はじめは恋人ができたことだけで毎日が楽しみで、それから好きになっていった。遠い国の話をたくさん聞かせてくれる。初めての仕事は月給一ポンドの甲板員、アラン汽船の船でカナダまで。今までに乗りこんだ船の名前やいろんな定期便の名前を教えてくれる。マゼラン海峡を抜けた話や見上げるくらい背の高いパタゴン族の話。ブエノスエイレスに腰を落ち着けることになったから故郷には休暇でちょっと寄っただけ。もちろんお父さんには見つかって会話も禁止された。
 ――あの手の船乗りのことならよく知ってるぞ。
 いちど二人が口喧嘩して、それからはフランクとは隠れて会わないといけなくなった。
 通りでは夕闇が深まっていく。膝に置いた二通の手紙、封筒の白が見えなくなる。ひとつはハリー兄さん宛、もうひとつはお父さんに。アーネスト兄さんが大好きだったけどハリー兄さんのことも好きだ。最近になってお父さんが年を取ったなとは思う、寂しがるだろうな。別人みたいに優しくなることもある。少し前に一日寝込んだ時、怪談を読んでくれて、暖炉でトーストも焼いてくれた。お母さんがまだ元気だった頃、ホウス岬の高台へ家族でピクニックに行った。お父さんがお母さんの帽子をかぶってみんな笑ったっけ。  
 時間が迫ってきても窓辺に座ったまま頭をカーテンに押しあてて、ほこりっぽい木綿のにおいをかいでいる。通りをくだったあたりから手回しオルガンの音がきこえる。曲には聞きおぼえがある。こんな夜におなじ調べで約束のことを思い出させるなんて。お母さんと交わした約束、これからは私が家を守っていきます。お母さんが病気で亡くなったあの夜、向かいの閉めきった暗い部屋で、通りから響くイタリアのもの悲しい調べを聴いていた自分と重なる。オルガン弾きは六ペンスも渡されてその場所を離れていく。満足げにお母さんの部屋に戻ったお父さんの声がする。
 ――イタリア人が! こんな所まで来やがって!
 もの思いに沈むほどお母さんが生きていた頃の凄惨な光景が胸の奥まで食いこんでくる――ありふれた献身が、狂気で最期の幕を閉じようとしている。おかしくなったお母さんがしつこく繰りかえすわけの分からない呪文がまた聞こえてきて身ぶるいがする。
 ――デレヴーォン、サローン! デレヴーォン、サローン!
 とつぜん恐怖に駆られて立ちあがった。逃げないと! ここからすぐに! フランクが救ってくれる。新しい暮らし、たぶん愛も。生きてみたい。どうして幸せになっちゃいけないの? 誰にも止める権利なんてない。フランクが引きよせて抱きしめてくれる。きっと救いだしてくれる。

 
 ノース・ウォール駅、ざわめく人ごみの中に立っている。手を握られていて、フランクに何か話しかけられているのは分かる。航路かなにかのことを、何度も、なんども。駅は茶色の手荷物をもった兵士でごったがえしている。倉庫の入り口がひらいている、奥に汽船の黒いかたまりが見える、リフィー川の河口にとめてある、窓から光がもれている。なにも返事をしない。頬は血の気がひいて冷たくて、迷いに張りさけそうで、道を示してくださるよう、どうすべきか教えてくださるよう、神様にお祈りする。ながく悲しげな汽笛が霧のなかにひびく。もし行けば、明日はフランクと海の上、汽船がブエノスエイレスまで運んでくれる。二人ぶんの予約はしてある。これだけのことをしてもらったあとで、後戻りなんてできるの? 張りつめどおしでめまいがして、声に出さず唇のうごきだけで憑かれたように祈りつづける。
 胸の奥で鐘が鳴りひびいた。手をつかまれる。
 ――行こう!
 世界中の海が胸に押しよせてくる。そのなかに引きずりこもうとしている。溺れてしまう。両手で鉄の手すりを握りしめる。
 ――早く!
 だめ! そんなことできない! 死にもの狂いで鉄にしがみつく。海に呑まれそうになって叫び声をあげる。
 ――エヴリン! エヴィー!
 鉄柵の向こうがわ、ついて来いと呼んでいる。はやく行けとどなられてもまだ呼んでいる。青ざめた顔でじっとそれを見ている。捕らえられて動かなくなった動物の顔。他人を見るような目には愛も別れも読み取れない。

 
 
Eveline
- James Joyce, Dubliners 1914
 
 

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